問いの集約
「三味線の選び方」後編 ──上級者向け 楽器の限界が自分の限界を極める(環世界/試奏/他者との対話)
上級者の楽器選びで一番危ないのは、「わかっていること」「すでにできること」の再体験に戻ることです。 それは安心ですが、同時に自分の環世界(輪)を固定し、演奏を形式の再現に寄せてしまう。 本回は、結論「楽器の限界があなたの限界を決める」を起点に、 “わからない体験”を入口として環世界を拡張し、楽器・楽曲という他者との対話へ移行する道筋を整理します。 さらに、マイルドな鬱状態で起きやすい発散・空虚・競争化のメカニズム、 試奏で大切な3要素(聴こえる範囲/個性/可能性)、 そして令和において「そこそこの演奏が通用しにくい」理由までつなげます。
この回で共有した問い
- ・上級者の楽器選びで「輪の中(わかる範囲)」を選ぶと、なぜ成長が止まるのか。
- ・“わからない体験”は、なぜ上達ではなく「環世界の拡張」として重要なのか。
- ・コントロール(独り言)と対話(双方向)の違いは、音にどう現れるのか。
- ・マイルドな鬱状態のとき、人が「発散→空虚→他者に勝とうとする」に向かうのはなぜか。
- ・芸術とスポーツの分岐は、どこで起きるのか(承認欲求/勝敗/形式の再現)。
- ・試奏で見るべき3要素(聴こえる範囲/個性/可能性)は、具体的に何を指すのか。
- ・「簡単に弾ける楽器」が上級者にとって危険になり得るのはなぜか。
- ・昭和と令和で「そこそこの演奏」が通用しにくくなった背景は何か。
- ・楽器の限界が演奏者の限界を決めるとは、何が“限界”を作っているのか。
内容概要
上級者向けの三味線選びを、スペックや慣れではなく「環世界(自分の輪)」の拡張として捉え直す回。 人は恒常性により、知っている感覚・感情・操作できる範囲に留まりやすい。 しかし上級者が輪の中の楽器(馴染み・コントロールしやすさ)を選ぶと、 できることの再体験に戻り、演奏は形式の再現となりやすい。 その状態が続くと、マイルドな鬱状態(停滞)が起き、発散で誤魔化し、空虚を深め、 ついには「人に勝つ」「承認欲求」に寄り、芸術がスポーツ化する。 ここから抜ける鍵は、楽器・楽曲という他者との出会いによって、 コントロール(モノローグ)から対話(ダイアローグ)へ移行すること。 試奏で重要なのは、①音色の知識によって聴こえる範囲を広げること、 ②演奏して初めて立ち上がる自分の個性(身体・生い立ち・遺伝・心)に気づくこと、 ③今の自分に想定できない可能性へ接続すること、の3点。 そして「簡単に弾ける=良い」とは限らず、浅い動作で音が出る楽器は深い身体動作を育てにくい。 令和は音楽体験が飽和し、観客の鑑賞能力も上がり、そつない演奏では心が動きにくい。 楽器との“他者としての出会い”が、演奏者を限界へ運び、限界でしか起きない表現を立ち上げる。
まとめ
上級者の楽器選びは、道具の更新ではない。自分自身が変容する余地を選ぶ行為である。 わかるものを選べば、安心は得られるが、自己は固定される。 わからないものに触れたとき、主体の支配は揺らぎ、対話が始まる。 その揺らぎは不安でもあるが、環世界を拡張し、「今の自分には想定できない自分」を立ち上げる。 楽器の限界が自分の限界を決めるとは、才能の話ではない。 どの制約の中で生き、どの深さの身体動作を引き受け、どれほど他者に開くかという関係性の選択だ。 令和において、そこそこの巧さは埋もれる。限界に立つ音だけが、人の心を動かす。
内容の記録
0.導入:「輪の中」を選んではいけない(環世界と上級者の選び方)
・人は「知っている感覚/感情/いつもの自分」の輪の中に留まりやすい(恒常性)
・上級者の楽器選びで重要なのは、輪の中のもの(コントロールできるもの)を選ばないこと
・輪の外のものは直感的に「何これ」「どう弾く?」という“わからない体験”として現れる
1.上級者が選択してはいけないこと:「わかっていること」の再体験
・多くの人は、できることを再体験できる=コントロールしやすい楽器を選びがち
・それは心が躍らず、他者にも「可能性を広げようとしていない」ことが伝わりやすい
・輪の外を教えてくれるのは他者(人/演奏/作品/楽器)であり、自分だけでは同じ自分を続ける
2.マイルドな鬱状態:発散→空虚→他者に勝とうとする(芸術のスポーツ化)
・同じ自分の反復は停滞を生み、マイルドな鬱状態(つまらなさ/挫折の入口)になりやすい
・停滞すると人は発散に向かい、発散後に空虚が残る(誤魔化しの循環)
・そのまま承認欲求・勝敗へ寄ると、演奏は芸術ではなくスポーツになる
・「形式の再現/模倣」はそれ自体が芸術ではない(言葉として定義がある)
3.上級者に必要なこと:他者(楽器・楽曲)との対話(モノローグ→ダイアローグ)
・コントロールはモノローグ(独り言)であり、対話ではない
・良い楽器は、コントロールしようとすると拒絶し、対話を要求してくる
・楽器と対話できる人は、観客や自分自身とも対話できる(双方向性)
・“わからない体験”ができるのは心の強さと開きが必要(閉じていると出会えない)
4.試奏で大切なこと:3つ(聴こえる範囲/個性/可能性)
・①音色の知識:聴こえる範囲を広げる(音階の正誤だけで終わらない聴き方へ)
・②自分の個性に気づく:身体・生い立ち・遺伝・心の違いが反応として現れる
・③可能性を広げる:思想のプロセスは、感受性・聴こえ方・自己発見を必ず起こす
5.「簡単に弾ける楽器」が上級者にとって良いとは限らない
・音が簡単に出る楽器は、浅い動作でも鳴ってしまい、深い身体動作を育てにくい
・深い身体動作は心身のつながりを通して、心が伝わる演奏に結びつきやすい
・浅い動作は表面的な心の動きとして見え、演奏が薄く感じられやすい
6.楽器選びの選択肢:そこそこ(コスパ)/自分に合う/自分を超える
・試奏で見えてくる選択肢は3類型:①そこそこ(コスパ)②自分に合う ③自分を超えたもの
・上級者にとって重要なのは③「自分を超える出会い」への接続
7.令和の前提:「そこそこの演奏は通用しにくい」
・音楽体験が飽和し、観客は多様な演奏を見聞きしているため、そつない演奏では心が動きにくい
・昭和は「演奏されるだけで価値」が成立しやすかったが、令和は限界に立つ音が求められる
・限界に立つきっかけが「他者としての楽器」との出会いであり、そこが演奏を変える
8.結論:「楽器の限界があなたの限界を決める」=努力ではなく前提条件
・楽器がここまでしかできない地点で、演奏者の努力が先に詰まることがある
・逆に、輪の外にある楽器は、想定できない自分を引き出し、自己の拡大を起こす
・楽器選びは、スペック更新ではなく「関係性の更新」である
よくある質問(通説と実態)
上級者風の人ほど「弾きやすい楽器」を選びたくなります。なぜなのですか?
上級者の弾きやすさは、多くの場合「今の自分がコントロールできる範囲」と一致します。 その範囲に最適化された楽器を選ぶと、元々できていることの再体験になりやすく、 演奏が「形式の再現」に寄っていきます。
上級者に必要なのは、輪の外にある他者(楽器・作品)に出会い、 対話を通じて環世界を拡張することです。 “わからない体験”が起きる楽器は、伸びしろの入口になり得ます。
「わからない体験」が大切と言われても、不安で避けたくなります。
不安は自然です。輪の外は、恒常性(安定していたい性質)に反する領域だからです。 ただ、芸術的な成長は多くの場合、 「安心の延長」ではなく「想定できない体験の統合」で起きます。
重要なのは、無理に耐えることではなく、 試奏や比較の設計によって「不安を情報に変える」ことです。 音色の知識を増やすほど、わからなさは輪郭を持ちはじめます。
マイルドな鬱状態になると、なぜ発散や空虚、競争に向かうのですか?
同じ自分の反復が続くと、エネルギーは滞りやすくなります。 その滞りは、短期的には「発散」で解消できますが、 発散は根本の問いに触れないため、結局、空虚さから逃れられない。
さらに空虚を埋めようとして、承認欲求や勝敗(人に勝つ)へ寄ると、 演奏は芸術ではなくスポーツ化します。 対話(他者との相互作用)が戻ると、空虚は別の形に変わり始めます。
試奏で見るべき「3つ(聴こえる範囲/個性/可能性)」とは何ですか?
①聴こえる範囲:音階の正誤だけでなく、倍音・余韻・反応・質感まで拾える聴き方を作ること。知識が入口になります。
②個性:身体・生い立ち・感性によって「自分だけが反応するもの」が必ず出ます。それがテーマの入口になり得ます。
③可能性:今の自分に想定できない動作や表現へ、どれだけ連れていかれるか。出会いの強度です。
「そこそこの演奏が通用しない」とは、具体的にどういうことですか?
令和は音楽体験が飽和し、聴き手は多様な演奏・多様な楽器に触れています。 そのため、上手でも「安全運転でそつなくまとめた演奏」は、心が動きにくい。
逆に、限界に立っている演奏(緊張や震えを含む)が心を動かすのは、 その人が“自分の外”に触れていることが伝わるからです。 その限界へ運ぶ装置の一つが、他者としての楽器です。
初公開:2023-06-30 / 最終更新:2026-02-08