演奏という行為について

現代において、演奏はしばしば、資格や権威を得るための手段として押し込められています。
多くの場合、いまだに「正確さ」や「速さ」を競い合うスポーツの次元、あるいは、どれだけ他人から承認を得られるかというエンターテインメントの次元にとどめられています。
そこでは、演奏は「わかるもの」「評価できるもの」として扱われます。

しかし、私が演奏の現場で見聞きしてきたものは、それとは異なる次元にあります。
それは、意味であり、存在であり、生まれつつある「何か」であり、変化であり、演奏しながら立ち上がっていく創造であり、表現であると同時に、その表現を超えていく「何か」でもあります。

演奏と向き合えば向き合うほど、わからないことが、むしろ増えていきます。
その「わからなさ」を、共有できる場をつくりたい──ここで扱うのは、そうした問いの始まりにある言葉です。

第1章 なぜ人は、三味線や音楽を必要とするのか。

人が演奏に向かうとき、そこには、目的や成果を超えた、言葉にならない 「自分宛てのメッセージ」が作用しています。

それは欠落を埋めるための欲求ではなく、まだ形を持たない何かが、 内側から姿を現そうとする出来事だと言えるでしょう。

三味線や音楽は、そのメッセージに応答するための行為として立ち上がります。 手段としてではなく、自分と世界との関係がもう一度結び直されていく場所として、 演奏は選び取られていきます。

なぜ、この問いは伝統や芸術の中で、途切れることなく受け継がれてきたのか。
その深部に触れるためには、何が必要なのか。

その出発点として、この章を始めていきます。

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第2章 演奏を通して、人はどのように変化していくのか

演奏を続けていると、技術が上達するだけでは説明できない変化が起きていきます。 それは成果として測れる成長ではなく、 ものの感じ方・捉え方・世界との距離が、 静かに組み替えられていくような変化です。

身体の感覚は次第に繊細になり、これまで見過ごしていた微細な揺らぎや違和感が、 輪郭を持ちはじめます。 同時に、思い通りにしようとする意志よりも、 いま起きている出来事に身を委ねていく感覚が、少しずつ強くなっていきます。

その過程で、人は「うまく弾く自分」から離れ、 演奏を通してしか立ち現れない自分と出会いはじめます。 喜びや高揚だけでなく、迷い、葛藤、揺らぎもまた、 その変化の一部として現れます。

では、その変化はどのように起こり、どこへ向かっていくのか。 ここから、その内実を丁寧に見つめていきます。

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第3章 演奏に映し出されるものは何なのか

演奏は、単に「自分を表現する」行為ではありません。 そこには、自分の意図や許可された感情だけでは説明できないものが、 しばしば立ち現れてきます。

過去の経験、身体に刻まれた記憶、 受け継いできた文化や価値観、先祖から引き継いできた身体── それらが、一つの出来事として結び合わされ、 演奏の中に生じてきます。

その瞬間、演奏は「私がするもの」から、 私を通して生じてしまうものへと性質を変えます。 光、喜びや情熱だけでなく、影、脆さ、葛藤、傷つきやすささえも、 音の中に映し出されていきます。

だからこそ演奏は、 自己表現であると同時に、自己への問い返しでもあります。 いま響いている音は、いったい誰の声なのか。 その演奏は、どこから来て、どこへ向かおうとしているのか。

演奏に映し出されているのはなんなのか。ここから、その輪郭をたどっていきます。

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第4章 なぜ、自分を超えていく瞬間が生まれるのか

演奏の中には、ときとして 自分の想定や能力の範囲を超えた瞬間が訪れることがあります。 それは努力の成果として「到達」するというより、 何かに「連れていかれる」ように起こる出来事です。

身体と無意識、感覚と時間、 それまで積み重ねてきた経験や稽古が、 ある一点で結び合わされ、 それ自体の力で演奏を推し進めていきます。

そのとき演奏者は、 「自分が演奏している」という感覚から離れ、 自分を通して演奏が生まれているという確かな気配に立ち会います。 恐れにも似た緊張と、抗いがたい必然性。 そこには、意図や計画では導き出せない領域がひらかれています。

それは奇跡ではなく、偶然でもありません。 長い時間をかけて培われた身体の学習と、 その場に立ち現れた出来事とが交差したときにだけ、 初めて可能になる現象なのです。

では、そのような瞬間を どのように守り、育て、次の学びへとつないでいくのか。 ここから、その条件を探っていきます。

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補章 日本人にしかできない演奏はあるのか

しばしば、「日本人にしか出せない音色」「その土地に根ざした演奏がある」と語られることがあります。 では、それは民族性や血筋によって決まるものなのでしょうか。

もしそうだとすれば、演奏は生まれによってあらかじめ規定されてしまいます。 しかし実際には、そう単純には割り切れない何かが存在しています。

三味線の音色や演奏のあり方には、 長い時間をかけて身体に蓄積されてきた所作、 言葉や発声、暮らしのリズム、 さらには無意識的な感覚の共有が深く関わっています。

それは「日本人だから」できるというより、 日本という環境の中で培われてきた身体のあり方が、演奏の中に響きとして現れている と言う方が近いのかもしれません。

では、その身体の学習や無意識の働きは、どのように受け継がれ、どのように伝えることができるのか。
ここから、問いは次の領域へ移っていきます── 身体と無意識「身体知は、どのように伝承できるのか」へ。