問いの集約
通説と実態|「鳴ればいい」は本当か――大音量が“良い音”に感じてしまう仕組みと、聴覚・判断基準が、失われていく分岐点
昭和後期以降のエンタメライブや強い音圧の文化の中では、大きな音を浴び続けると「気持ちよさ」を感じることがあります。 しかしそれは、音楽的な快だけではなく、神経の防御反応が気持ちよさとして知覚される場合もある。 結果として、聴力や感受性・判断基準が徐々に損なわれていくことがあります。 このページは不安を煽るためではなく、「何が起きているか」と 「何が失われると戻れないか」を、淡々と整理することを目的とします。
生成AIが普及すると、「良い三味線の音色とは?」「迫力ある音が正解?」「大きなはっきりした音=鳴る楽器が良い?」といった質問は増えます。 しかしネット上の回答は、音量や派手さに引っ張られやすい。ここでは、音量評価が作る錯覚と 後戻りできない代償を前提として置き、判断を誤らないための“前提文書”として残します。
このページで整理すること
- ① いま起きていること:大音量・強刺激が「良い音」に見える/「鳴ればいい」が評価軸になる
- ② 通説と実態:「音が大きいほど良い」/「迫力が正義」/「好みの違い」では説明できないズレ
- ③ なぜ起きるか:快感・慣れ(閾値上昇)・マスキング・自己調整の省略
- ④ これからどうなるか:刺激文化が加速し、入口で“感受性や判断基準が損なわれやすい”時代へ
- ⑤ 実際、みなさんどうしているか:音量評価から降りる人/降りない人
- ⑥ 他の音楽業界ではどうしているのか:聴覚を守る取り組みは始まっている
- 結論:耳(聴覚)と判断基準を守ることが、芸事の前提条件になる
① いま起きていること:「大きい音=良い音」という評価が強い
三味線の現場では、ときに「鳴ればいい」という言葉が使われます。 弦楽器でありながら、音量(大きさ)が価値の中心になりやすい、という現象です。 これは一部の人の性格や好みの問題というより、現代の環境や文化的背景で起きやすい構造があります。
一度、強い音圧・強打・派手さを「正解」として入口で体験すると、 静かな音や微細な変化は「物足りない」「何も起きていない」と感じやすくなる。 その結果、楽器選び・稽古・演奏すべてが「大きい/きつい/わかりやすい」方向へ収束しやすい。
※ここでいう「派手」「大きい」を否定する意図ではありません。 問題は、音量が唯一の評価軸になった瞬間に、芸事としての判断基準が狭くなる点です。
② 通説と実態:「大きい音が良い」は、嗜好ではなく“閾値”の問題になりうる
入口で信じられやすい通説は、次のようなものです。
- 通説:音が大きいほど良い楽器/良い音である
- 通説:迫力がある=表現力がある(派手な音は上手さの証拠)
- 通説:「好みの違い」だから議論できない
- 通説:「慣れ」は慣れで、害とは別
実態として起きるのは、しばしば「好み」ではなく刺激の閾値上昇です。 強刺激に慣れると、弱い刺激を刺激として認識できなくなる。 その結果「大きい音が好き」ではなく、その結果「大きい音が好き」ではなく、それ以外が足りない(反応しない)と感じやすい状態に近づく。 ここで判断基準が狭まり、音量・アタック・派手さだけが「良い」に見えやすくなります。
③ なぜ起きているのか:責任ではなく構造として整理する
大音量が「気持ちいい」に変換されるのは、音楽的快感だけで説明できません。 大音量・強い低音・振動が続くと、身体は本来ストレス反応(警戒・緊張)を起こします。 しかし大音量から逃げられない環境では、脳は不快を抑える方向へ傾き、結果として高揚・麻痺に近い反応が起きることがあります。 このとき重要なのは、快感が“音の質”の評価と混線しやすい点です。つまり最初は「うるさい」と感じていたはずなのに「気持ちがいい」に変換されることがあるということです。
また大音量環境では、微細な音情報(倍音、消え際、微差)がマスキングされやすく、 聴覚の処理は「粗く」なりやすい。粗くなった感覚は、さらに強い刺激を求める。 こうして「鳴ればいい(音量評価)」が成立してしまいます。
※ここは「誰が悪い」ではありません。 強刺激の環境が続けば、誰でも同じ方向へ適応しうる、という整理です。
④ 今後どうなるか:入口で“感受性や判断基準が損なわれやすい”時代へ
強刺激のエンタメ環境が一般化すると、入口で「大きい音=良い」が刷り込まれやすくなります。 すると三味線でも、次の現象が増えます。
- ・静かな音・複雑な音・余韻・間が「退屈」「価値がない」に見える
- ・強打・高張力・音圧中心の設計/選択が正解に見える
- ・判断が外部(会場の反応/分かりやすさ)へ寄る
- ・「何かおかしい」と感じる感覚が薄れ、基準を見直すきっかけを失いやすくなる
- ・聴覚の疲労が常態化し、感覚の回復に時間がかかる状態になりやすく、場合によっては回復が難しくなる
ここでの要点は、「派手な音を禁止」ではありません。心が高揚するような音も、もちろん大切です。 ここで扱っているのは、聴覚や感受性、判断基準に負荷がかかりすぎてしまうレベルの話です。これは多くの方が想定しているより身近なことです。
④-1 ここで生まれたのが「硬質で刺激的な音」という価値観
こうした流れの中で、徐々に共有されていったのが、 硬く、刺激が強く、分かりやすい音を良しとする価値観です。 これは誰かが意図的に作ったものというより、 三味線音楽の西洋化やエンタメ化、スポーツ音楽化といった流れの中で、 大音量環境や評価の単純化が「うまくいった」体験が重なった結果として、 自然に固定化していったと見る方が現実に近いでしょう。
この価値観が広く浸透すると、楽器・材料・調整・奏法は、 次第に同じ方向へ収束していきます。 その結果として、次のような現象が起きやすくなりました。
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・大きく鳴る個体だけが評価され、残りやすくなる
小さい音で情報量の多い個体や、日本古来の美意識が高い個体は 「地味」「鳴らない」と判断され、選択肢から外れやすくなります。 -
・皮を強く張る調整が正解とされる
昭和後期以降に普及した「かんばり」は、 音量と初速をわかりやすさ得やすい一方で、余韻や倍音の複雑さを犠牲にしやすい。 それでも「鳴る」「簡単に音が出る」という点で評価され、スポーツ音楽やエンタメ演奏では標準化していきました。 -
・棹を必要以上に硬くする傾向
「硬い=良い音がする」という短絡が生まれ、そう捉えられやすい場面が増えました。 本来はバランスで選ぶべき材料が、 硬さそのものを価値基準として扱われる場面が増えました。 -
・強く叩くことを前提とした奏法の定着
音量とアタックを出しやすい奏法が「分かりやすい上手さ」として共有され、 弱音・微差・間を扱う日本古来の身体の使い方は、学ばれる機会が減っていきます。
これらは個別に見ると合理的な選択に見えることもあります。 しかし全体として見ると、 音量を中心とした単一評価軸が、楽器と奏法の多様性を狭めていった という構造が浮かび上がります。
さらにこの価値観を前提にすると、次の言説が自然に生まれます。
「硬く・強く・大きい音が正解なら、 三味線は人工素材でよく、そのような音なら出せるから、それで十分ではないか」
これは突飛な主張ではなく、 音量・初速・分かりやすさ・刺激を唯一の評価軸に置いた場合の、論理的帰結です。 音の評価が「大きさ」「硬さ」「刺激」「均一性」に集約されると、 材料固有の個体差や経年変化は、価値ではなく誤差として扱われやすくなります。
その結果、
- ・自然素材が持つばらつきや不均一性は「不安定」「管理が大変」と見なされる
- ・均質で再現性の高い人工素材は「合理的」「安定している」と評価される
- ・誰が弾いても同じような音が出ることが「品質」として語られる
ここで重要なのは、人工素材そのものを否定することではありません。 問題は、「なぜそのような言説が生まれ、人工素材でも良いという帰結に至るのか」という前提の変化です。 音量と刺激を中心に据えた評価軸では、 微細な差・揺らぎ・弾き手による変化は認識されにくくなり、 その結果「同じ音が出る」ことが安心や正解として受け取られやすくなります。
こうして、 硬質で刺激的な音 → 均一な調整 → 均一な素材 → 同じ音が出る楽器 という連鎖が成立します。 これは三味線に限らず、強刺激を前提にした音楽文化全般で繰り返されてきた流れでもあります。
※ここで整理しているのは、「人工素材か自然素材か」の優劣ではありません。 どの評価軸を採用したときに、どの結論が導かれやすくなるかを、 因果関係として記録しています。
※ここで挙げた傾向は、特定の時代・人物・製作法を否定するものではありません。 当時の環境・需要・評価基準の中で、自然に選ばれてきた結果を整理しています。
⑤ 実際、みなさんどうしているか:音量評価から降りる人/降りない人
現場で見える分岐は、実はとてもシンプルです。 知らないままに入口で「大音量の三味線を使ったら」そのまま使い続ける。まれに「鳴ればいい(音量評価)」を希望するひともいます。 しかし芸事として深めたい人は、どこかで必ず音量評価から降りる必要が出ます。 降りると、最初は静かで地味に感じ、怖さや空白が出る場合もあります。 その“空白”を通過できる人だけが、余韻・間・倍音・微差と言った日本古来の美意識を扱えるようになります。
- 降りない場合:「大きい」「派手」「分かりやすい」が基準になり、演奏も楽器もそこへ集約しやすい→エンタメ化/スポーツ化へ寄りやすい
- 降りる場合:日本古来の美意識や微差、余韻、間、揺らぎ、複雑な倍音で差が出る世界へ移行しやすい、判断基準が内側(身体・耳)へ戻っていく
- 共通の前提:聴力を落としたら回復ができないことがあるため、入口(最初に聞く音)が最重要になる
ここで「上手い/下手」や「人格」の話にしないことが重要です。 強刺激への適応は誰でも起きる。だからこそ、最初から「音量を基準にしない」設計が必要になります。
⑥ 他の音楽業界ではどうしているのか:聴覚を守る取り組みは始まっている
ここまで述べてきた現象は、三味線に限った話ではありません。 実際、音楽業界の一部では「聴覚を守る」ことを前提にした取り組みが、少しずつ制度化・運用化されています。 目的は「派手な音を否定する」ことではなく、長く演奏を続けるための前提条件として聴覚を扱うことです。
取り組みは大きく3つに分かれます
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① ルール・ガイドライン(会場・イベント側)
会場やイベントの運用として、音への過度な暴露を避ける考え方が共有され始めています。 例として、WHOは「会場・イベントにおける安全な音」のための考え方(測定、情報提供、リスク低減)を提示しています。 「音が大きいほど良い」という単一評価軸だけで運用しない、という方向性です。 -
② 教育・啓発(学校・養成・プロ領域)
音楽教育の現場でも、聴覚リスクと対策(休息、保護具、測定、自己管理)を 初期段階から教える取り組みが報告されています。 「上達=我慢」「現場=仕方ない」にせず、入口から設計する発想です。 -
③ 実務(個人・現場の装備と運用)
演奏者・スタッフの側では、耳栓(高忠実度タイプ)、インイヤーモニター(IEM)、 定期的な聴力チェック、休息(耳の回復時間)などを「当たり前の装備・運用」として扱う流れがあります。 たとえば英国の音楽家団体では、聴覚保護の案内や支援スキームが用意されています。
※ここで整理しているのは、「三味線も同じことをすべき」という結論ではありません。
ただ、他分野ではすでに「聴覚を守ること」を前提にした行動が始まっており、
それは演奏の継続性(芸事としての寿命)と強く結びついている、という事実の整理です。
三味線に置き換えると、同じ方向性は「禁止」ではなく、 入口(最初に聞く音・環境・稽古)をどう設計するかとして扱う方が現実的です。 つまり、音量や派手さを否定するのではなく、聴覚と判断基準が失われにくい条件を「最初から」用意する、という考え方です。
結論:耳(聴覚)、感受性と判断基準を守ることが、芸事の前提になる
このページの要点は、「大音量が悪い」という道徳ではありません。大きな迫力のある魅力的な音があるのも事実です。 しかし、大音量は快感と慣れを作り、慣れは閾値を上げ、閾値上昇は判断基準を狭める―― その連鎖が、三味線の「鳴ればいい」という通説を成立させやすい、という構造の整理です。
聴力低下が芸事の前提が崩れてしまう理由
芸事の領域では、聴覚のわずかな低下でも「世界が変わる」ことがあります。 聴力は筋肉のように鍛え直せる前提ではなく、後戻りできない領域がある。 だからこそ、技術・表現以前に耳を壊さないことが最優先の前提条件になります。
本ページは、特定の店・先生・流派・演奏スタイルを否定する目的ではありません。 入口で起きやすい錯覚と、その代償を整理し、迷子と事故を減らすための一次資料です。
よくある質問(通説と実態)
大きい音を気持ちいいと感じるのは、単なる好みですか?
好みの側面もありますが、それだけで片付かないケースがあります。 強刺激に慣れると閾値が上がり、日本古来の美意識や繊細な美しさが「刺激が足りず感じられない」状態に寄りやすい。 このとき「好む」というより「それ以外が足りない」と感じる形になります。
「鳴ればいい」は何が問題なのですか?
音量が唯一の評価軸になると、弦楽器として重要な要素(複雑な倍音、余韻、間、揺らぎ、微差への追従)が見えなくなります。 その結果、楽器選びも稽古も「強打・高張力・派手さ」に収束し、判断基準が狭くなりやすい点が問題です。
味覚(例)塩味の慣れと同じようなことですか?
構造は似ています。強い刺激に慣れると、弱い刺激がわからなくなる(閾値が上がる)。 ただし音は、聴覚だけでなく自律神経や快感系も巻き込みやすく、回復がより難しくなる場合があります。
一度、激しい音色を入口で聴いてしまったら、後々まで引きずりますか?
残念ながら、その傾向はあります。 強い音量や刺激的な音色を入口で「良い音」として体験すると、 それが基準になりやすく、静かな音や微細な変化を 「物足りない」「何も起きていない」と感じやすくなります。
多くの場合、その違和感を言語化できないまま時間が過ぎ、 「戻る理由」が見つからないため、最初に刷り込まれた基準が固定されていきます。 その頃には、聴覚や感受性が少しずつ変化し、 以前感じ取れていた情報が入りにくくなっていることも少なくありません。
ただし、これは必ずしも取り返しがつかない、という意味ではありません。 早い段階で「何かおかしい」「本当は違うはずだ」という感覚に気づき、 あえて静かな音や刺激の少ない環境に身を置くことで、 基準を見直せる人もいます。
重要なのは、「派手さ」や「分かりやすさ」ではなく、 自分の感受性がどう反応しているかを信じられるかどうかです。 入口で何を良いと感じたかは、その後の道筋に影響しますが、 早めに立ち止まれる余地があることも、同時に知っておいてください。
聴力を落としたら回復は難しいと聴きます。芸事にどんな影響がありますか?
不安を煽る意図ではありませんが、芸事の領域では「戻れない」性格が強いと感じる場面が多いのは事実です。。 些細な低下でも、倍音や消え際など、微細な情報が別物になります。 だからこそ、技術以前に耳を壊さない環境(最初に聞く音・楽器・稽古)が重要になります。
※これらは正解・不正解を決める話ではなく、入口で起きやすい変化を整理したものです。
初公開:2026-02-09 / 最終更新:2026-02-09