00:00 「中途半端な西洋発声」「叫ぶような日本風の発声」「和の発声」
01:10 「叫ぶような日本風の発声」と「和の発声」の違い
叫ぶような発声を日本風の発声と間違えている人が多くいます
1.「叫ぶ」とどうなるのか
叫ぶ発声→体を固めて重心を上げる。喉を固める。声を平たくする。一部にのみ響かせる
このような発声をしていると
・喉を痛める
・身体を痛める(腰痛、背中の痛み)
・自律神経を乱すと現れる症状(眠れない、頭痛など)
・違和感がある/楽しくない/苦しい/嫌になる
・一曲は反応が良いが、二曲目以降はダメ
・「上手だね」「元気だね」とは言われるが、感動したとは言われない
これらに心当たりがある人は、知らず知らずのうちに叫ぶような発声をしているかもしれません
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2.「叫ぶ」ようになった理由
日本は江戸時代に鎖国をしていました。それが日本の独自の文化を形成し、伝統芸能の発声や身体技術に埋め込まれました。
しかし、その後、欧化政策や教育政策の変更により伝統芸能は徐々に失われていきました
叫ぶような日本風の発声が生まれたのは、マスメディアや西洋音楽に適したオーディオやホールなど環境の変化、音楽のスポーツ化に適した発声として混ざり合い、叫ぶような発声として現代に至っていると考えられます
特徴
・身体を固め重心を上げる
・裏声のように声帯を伸ばす
・喉や声帯を閉める
・西洋発声のように頭部に響かせる
・目や口を大きく開けて声を前に飛ばす
・硬質な甲高い声を推奨する
・みんな一緒になる
一節では、母音が多い日本の言葉が伝わりやすく、日本の環境でも声が通りやすいとも言われています。
しかし令和の現代では、この発声が合わず、人によっては心を体を蝕み、先程お伝えしたような症状が出る人もいます。
05:15
「叫ぶ」=我が出ている発声
「叫ぶ」=キャー
他人の関心を得る方法の一つ
これは交感神経が優位になって心身が緊張して興奮してきます。
この発声はスポーツに適した発声で身につけることになります。
一部のボイストレーニングでは、この「叫ぶ」が推奨されます。
一瞬大きい声が出るので、やった気になる
しかし、長期的には声が出なくなることもあるります
テクニックとは頭の都合(承認欲求、勝ちたい、資格が欲しい、組織から見放されたくないなど)で声を改造することです。
手段に過ぎないテクニック、それ自体に点数をつけて競い合う。
その状態で活動している人は「我」が出ている状態です。
それを伝統芸能では小手先と言って戒めています。
また、本当に大切なことを骨抜きにして形だけ状態を形骸化していると言います
08:09 和の発声法について
(1)感情は声を通じて表現される
叫ぶ発声の人は、重心が高く、頭が私。考え/思考が私
頭で身体を支配する「テクニック」を取り入れます
日本人は本来、感情は肚にあると考えていました。
一方、重心が高く、頭が私の人の場合、頭で考えた「感情風」のことを実現しようとします
それは我を出した大袈裟な表現や無理に大きく高い声を出すことをしようとします。
これは感情表現ではありません
感情は声を出すのではなく「声を通じて表現される」「声を通じて生じるもの」です。
頭で考えて出すものではなく、身体から湧き上がるものです。
感情を身体を通じて表現すると情動となります。
外に対して身体の動きを伴い、働きかける何かで、それを声、動作、目、表情が利用されます。
声だと、身体で感じた感覚を判断、解釈をせずにそのまま声に繋げると感情が声を通じて表現されることになります。
10:10 声を情動を繋げる基礎
・呼吸を深くする
・重心を肚や丹田に下げる
・日本古来の身体技術を身につける ことです
上級者は、これだけお伝えすると奥の深さがわかりますが、いわゆるテクニックではないため実際に目の前でできている人を見ないと実感できないかもしれません。
自分の情動や感情に触れる身体を作っていく
このような抽象的なことを伝えるのに「口伝」を使用していました。
11:50(2)自分を通過させる
「私」が「主体」ではなく「対象」が「主体」となる。「私」はそれを繋ぐ「媒介者」となります
例)情景が主体となります。私を通じて何かが生じ、それを声に繋ぐと唄になります。
私が何かをするのではなく、情景を自分に通過させるという感覚です。
情景を頭で考えるのではなく、情景のイメージをイメージのまま運び、それを糸口として、身体を通じて声に繋ぐ。これは私が何かをするのではなく、私を通じて立ち現れる「何か」なのです。
情景のイメージは人それぞれですが、それは人それぞれ違っていていいのです。
個性とは、その対象の運び方、対象と身体との繋ぎ方のことで、その人の生まれてからの経験や身体の違いから必然的に生まれてくるものです。
考えて個性を出そうとするものではなく、自然に個人差が生まれてくるものです。
このような抽象的なことをお伝えするために、体得して人から直接身体を通じて学ぶ口伝が採用されてきました。
和の発声法では、このような奥の深いことをお伝えするために、
知識、心身、意識、技術をトータルで取り組んでいきます。
正しい知識を身につけて、心身を整える。意識が拡大が生じると技術がついてくる。
この過程を繰り返していくことを「稽古」と呼びます。
本当の感情が声を通じて表現される。
自分に何かが通過する
多くの人に体験いただきたいことです。・喉や声帯を閉める
・西洋発声のように頭部に響かせる
・目や口を大きく開けて声を前に飛ばす
・硬質な甲高い声を推奨する
・みんな一緒になる
一節では、母音が多い日本の言葉が伝わりやすく、日本の環境でも声が通りやすいとも言われています。
しかし令和の現代では、この発声が合わず、人によっては心を体を蝕み、先程お伝えしたような症状が出る人もいます。
05:15 3.ボイトレと和の発声法の違い
「叫ぶ」=我が出ている発声
「叫ぶ」=キャー
他人の関心を得る方法の一つ
これは交感神経が優位になって心身が緊張して興奮してきます。
この発声はスポーツに適した発声で身につけることになります。
一部のボイストレーニングでは、この「叫ぶ」が推奨されます。
一瞬大きい声が出るので、やった気になる
しかし、長期的には声が出なくなることもあるります
テクニックとは頭の都合(承認欲求、勝ちたい、資格が欲しい、組織から見放されたくないなど)で声を改造することです。
手段に過ぎないテクニック、それ自体に点数をつけて競い合う。
その状態で活動している人は「我」が出ている状態です。
それを伝統芸能では小手先と言って戒めています。
また、本当に大切なことを骨抜きにして形だけ状態を形骸化していると言います
08:09 和の発声法について
(1)感情は声を通じて表現される
叫ぶ発声の人は、重心が高く、頭が私。考え/思考が私
頭で身体を支配する「テクニック」を取り入れます
日本人は本来、感情は肚にあると考えていました。
一方、重心が高く、頭が私の人の場合、頭で考えた「感情風」のことを実現しようとします
それは我を出した大袈裟な表現や無理に大きく高い声を出すことをしようとします。
これは感情表現ではありません
感情は声を出すのではなく「声を通じて表現される」「声を通じて生じるもの」です。
頭で考えて出すものではなく、身体から湧き上がるものです。
感情を身体を通じて表現すると情動となります。
外に対して身体の動きを伴い、働きかける何かで、それを声、動作、目、表情が利用されます。
声だと、身体で感じた感覚を判断、解釈をせずにそのまま声に繋げると感情が声を通じて表現されることになります。
10:10 声を情動を繋げる基礎
・呼吸を深くする
・重心を肚や丹田に下げる
・日本子来の身体技術を身につける ことです
上級者は、これだけお伝えすると奥の深さがわかりますが、いわゆるテクニックではないため実際に目の前でできている人を見ないと実感できないかもしれません。
自分の情動や感情に触れる身体を作っていく
このような抽象的なことを伝えるのに「口伝」を使用していました。
11:50(2)自分を通過させる
「私」が「主体」ではなく「対象」が「主体」となる。「私」はそれを繋ぐ「媒介者」となります
例)情景が主体となります。私を通じて何かが生じ、それを声に繋ぐと唄になります。
私が何かをするのではなく、情景を自分に通過させるという感覚です。
情景を頭で考えるのではなく、情景のイメージをイメージのまま運び、それを糸口として、身体を通じて声に繋ぐ。これは私が何かをするのではなく、私を通じて立ち現れる「何か」なのです。
情景のイメージは人それぞれですが、それは人それぞれ違っていていいのです。
個性とは、その対象の運び方、対象と身体との繋ぎ方のことで、その人の生まれてからの経験や身体の違いから必然的に生まれてくるものです。
考えて個性を出そうとするものではなく、自然に個人差が生まれてくるものです。
このような抽象的なことをお伝えするために、体得して人から直接身体を通じて学ぶ口伝が採用されてきました。
和の発声法では、このような奥の深いことをお伝えするために、
知識、心身、意識、技術をトータルで取り組んでいきます。
正しい知識を身につけて、心身を整える。意識が拡大が生じると技術がついてくる。
この過程を繰り返していくことを「稽古」と呼びます。
本当の感情が声を通じて表現される。
自分に何かが通過する
多くの人に体験いただきたいことです。